春の二度目の自転車旅の記録。

1.概要
2.行動記録
2.1 海南
2.2 藤白神社
2.3 藤白坂
2.4 藤白坂を登りきった
2.5 王子巡を続ける
2.6 和歌山に戻り夕食

# 1.概要 【4月10日(月)】


泉佐野から輪行で海南市に移動。3月の旅で取りこぼした万葉歌碑、王子巡りを行う。

海南から王子巡りをしながら「拝ノ峠」を越えてJR紀伊宮原駅まで走った。紀伊宮原からJR和歌山に戻り宿泊。「拝ノ峠」はみかん畑を縫うような激坂の道を走って越えることになった。

・万葉歌碑、関連地
 1.海南市(7箇所)
 2.藤白坂
 3.御所の芝

・王子巡
 1.藤代王子
 2.塔下王子
 3.橘本王子
 4.所坂王子
 5.一壺王子
 6.蕪坂塔下王子
 7.爪書地蔵
 8.山口王子
 9.伏原の墓

◆和歌山県街道マップ 海南駅(海南市)~紀伊宮原駅(有田市)
http://www.wakayama-kanko.or.jp/walk/007/map.html


# 2.行動記録(抄)



<ルート>

※電車移動中もGPSをON状態にしておいたので、線路上にもラインが引かれています。


- 2.1 海南



◆海南市市街地

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10:00頃 JR海南に到着。天気は曇り。


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まずは、和歌山駅で買っておいた「柿の葉寿司」を食べる。これが朝ごはん。うまい。


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歌碑1:駅ターミナル内の歌碑(犬養孝氏揮毫)

・紫の名高(なだか)の浦の靡き(なびき)藻の 情(こころ)は妹(いも)に因(よ)りにしものを
(巻11-2780)

歌意:名高の裏に靡く藻のように 私の心はあなたに靡き寄ってしまったものを


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駅前の桜は綺麗に咲いていた。


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次の歌碑を探して自転車を走らせるとハナカイドウの並木。ピンクが強い花。


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歌碑2:駅近く(佐々木成一氏揮毫)

・紀伊(き)の海の名高の裏に寄する波 音高きかも逢はぬ子ゆゑに
(巻11-2730)

歌意:紀伊国(きのくに)の海の名高の浦に寄せる波のように、人の噂の高いことだなあ。まだ逢ってもいないあの娘との間に噂が立ってしまったことよ

名高の浦とはかつて海南市名高にあった海で、万葉時代にはこの歌碑が建っている辺りが海岸線で、ここより遠浅の海が広がり、潮が引くと干潟となりそれに由来して日方という地名がついた。・・・万葉集にはこの歌を含め、名高の浦を詠んだ歌が4首収められている。


きっと綺麗な所だったのだろうなぁ・・・見てみたかったなぁ。


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歌碑3:柳瀬継夫氏揮毫

・紫の名高の浦の愛子地(まなごつち) 袖のみ触れて寝ずかなりなむ
(巻7-1392)

歌意:名高の浦の愛子地には袖を触れるだけで、そこに寝ることもなく終わってしまうのであろうか


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歌碑4:犬養孝氏揮毫

・紫の名高の浦の名告藻(なのりそ)の 磯になびかむ時待つ我を
(巻7-1396)

名告藻(なのりそ)・・・意中の人、好きな人

歌意:紫の名高の浦の名告藻(なのりそ)が磯になびく時を待つ我よ・・・ (意中のひとが自分を好いてくれる時を待つ身を嘆息した歌)

なかなか趣がある。


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歌碑5:

・黒牛の海くれなゐにほふももしきの 大宮人しあさりすらしも
(巻7-1218)

歌意:黒牛の海の浜辺が紅の色に美しく照り映えている。宮廷のお供の女官たちが磯遊びをしているらしい。



◆黒江

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黒江という地区に入った。この区画はとてもきれいな町並みだった。


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ベンチには石雛が置かれていた。町の至る所にこのような石雛が置かれていた。いいアイデアだ。


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枝垂れ桜が満開。清楚なピンクが大変よろしい。


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黒い樽?の中に花鉢が置いてあり綺麗。こういうのが色んな所に飾られていて、とても風情がある町だった。次回はゆっくりと散策してみたい。


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なんとなく細い横道も絵になる。


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細い生活道路を走ってやっとたどり着いた中言神社


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境内には桜が咲く。


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歌碑6:(谷口東峰氏揮毫)

・いにしへに妹と我が見しぬば玉の 黒牛がたを見ればさぶしも
(巻9-1798)

歌意:かつては愛する人とともに眺めたこの黒牛潟(くろうしがた)を 今は一人で眺めているのがとても寂しいことだ

「くろうしがた」は”苦労した人”を思わせる音も感じる。愛する人への愛惜の情が込められているのだろう。


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中言(なかごと)神社

黒牛潟は、この神社の境内周辺で「この地古は海の入江にてその干潟の中に牛に似たる黒き石あり、満汐には隠れ干汐には顕る因りて黒牛潟と呼ぶ」(紀伊続風土記)とあるらしい。

なるほど、境内には黒い石でできた牛の像があった。こういう謂れがあるのか。



◆黒牛茶屋

次の歌碑を探してグルグルグルグル走ったけど見つからない。地元の人に聞くしかないと思い、酒屋さんのようなお店に入る。


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とてもいい雰囲気のお店で、ぽつりぽつりお酒を買いに来る人がいた。


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酒作りの際に使用した濾布を使用したバッグや帽子があった。非常に高価で買えなかったが、とても魅力的な布だ。

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歌碑7:

・黒牛潟汐干の浦を紅の 玉もすそ引き往くは誰が妻
(巻9-1672)

歌意:不要でしょう。簡単ですから。

この歌碑は今工事中で、歌碑板のみ黒牛茶屋内に置かれているとのことだった。


- 2.2 藤白神社


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海南の駅の方へ戻り、熊野街道に沿って藤白神社まで行く。


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鈴木姓の発祥地。


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今年の3月にも訪れた藤白神社。宿の時間に間に合わない感じだったので駆け足で見学した。その時には35mm換算50mmのレンズ1本で旅をしたが、今回は広角を持ってきたので、写しきれなかったご神木を撮影。35mm換算24mmでも入りきれないほどの大きな木だ。


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すこし過ぎた桜、山桜だろう。素朴な感じがとてもいい。


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境内には華やかな桜もある。


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歌碑:

藤白の み坂を越ゆと 白たへの わが衣手は 濡れにけるかも
(巻9-1675)

有間皇子の不幸を悲しむ歌と解釈してもよいでしょう。有間皇子はこの先にある藤白坂にて殺されています。中大兄皇子(後の天智天皇)の指示によるものです。


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歌碑に刻まれた歌に曲が付けられているようだ。私は楽譜が読めない。どんな曲なのか。


- 2.3 藤白坂


藤白坂は途中までしか舗装されていないため、藤白神社に自転車を置いて徒歩で向かう。


◆有間皇子の墓

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藤白坂へ向かう途中に有間皇子の墓がある。

歌碑あり。佐々木信綱氏の揮毫。

・家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る


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誰が供えたか貝殻が置いてあった。「墓畔」という歌も作られている。


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有間皇子はこんな感じの人だったらしい。わずか19歳で亡くなっている。



◆藤白坂


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藤白坂は未舗装のため徒歩で登る。ちょっとしたトレッキング気分だが、ここで皇子が殺されたと思うと歴史の重さに暗澹たる気持ちになる。


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とくに狙った訳ではないが魚眼フィルターで撮影。だんだんレンズ交換が面倒になり「まあいいっか」と撮影したことは一度や二度ではない。やっぱり明るめのズームレンズ1本欲しい。

椿の花は落ちてこそ美しい。


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藤白の坂。


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ひたすら登る。


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このルートは熊野古道 紀伊路。昔から熊野詣で使用されていたのだろう。


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椿の赤色が目を引くことが多かった。


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頂上近く。椿散華。


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訳1時間くらいかかって頂上まで来ることが出来た。頂上には地蔵峰寺および塔下王子がある。



◆藤白坂の野仏

藤白坂には1丁ごとに野仏が置かれている。今回、それらを撮影しながら登った。しかし、なぜか12丁目の野仏だけは撮影を忘れてしまったようだ。うーん、見落とすようなヘマをしてしまったのか。

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1丁、2丁
3丁、4丁


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5丁、6丁
7丁、8丁


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9丁、10丁
11丁、13丁
※12丁は撮影忘れ


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14丁、15丁
16丁、17丁


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最後の野仏+地蔵峰寺のお地蔵さん



◆藤白坂で見た花

藤白坂には色んな草木が花を咲かせていた。

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馬酔木、ユキヤナギ、野いちご?
椿、リンゴ?、ビワ
シャガ、野いちご?、アケビ?
シャガ、スミレ、スズラン

多少重複するが、こんな感じだった。


-2.4 藤白坂を登りきった




◆塔下王子(地蔵峰寺)

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坂を登りきると地蔵峰寺および塔下王子がある。


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藤代塔下王子跡

藤原定家の日記、建仁元年(1201)十月九日条に見える王子社で、今「塔下」は、峠の当て字と思われます。藤原頼資の日記、承元四年(1210)四月二十五日条では「道塚」王子と記されています。この王子社は、明治時代に橘本王子社と共に、橘本王子神社(現、橘本神社)に合祀されました。ここからの和歌浦方面の長めは素晴らしく、応永三十四年(1427)九月足利義満の側室・北野殿の熊野参詣に随行した僧実意(じつい)は「こまやかな風情は絵に描きとどめがたい。いくら眺めても、飽きない島々の景色だ」と、日記に書いて言います。北野殿も、よほど気に入ったのでしょう、昼食抜きで、長時間眺めていたようです。その場所は「御所の芝」と呼ばれ、案内板の裏手に有ります。今では、休息できるよう整備されています。



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この石像もなかなか他に無い造形だ。



◆御所の芝

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地蔵峰寺の裏から道を辿り「御所の芝」についた。下の景色を一望できる。すこし工業化された港だが遠くの山々は昔のままだろう。あいにくの曇り、そして休憩していたらポツリポツリと雨が降ってきた。

天気が良かったなら、ここで夕日を待っても良かったなぁ。


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とても良い景色だった。昼食を忘れて景色を眺めたという北野殿の気持ちはよく分かる。



◆藤白神社に戻る

本当なら塔下王子から峠の向こう側へ下りていくのが熊野古道ルートなのだが、自転車旅なので一旦、自転車を置いてある藤白神社まで戻る。ポツポツと雨が降ってきたので急いで藤白坂を下りる。

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この道は熊野古道です。


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藤白神社の扁額。


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芭蕉翁藤塚

・藤の実は俳諧にせん花の跡

この句の前書に「彼の藤白み坂といひけん花は宗紙のむかしに匂いて」とある。もと祓戸王子社内にあり芭蕉を尊敬する二夕坊という人が建てたと刻まれている。



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藤白神社社殿には句が掲げられている。一般の人が納めたものだろう。

・緋袴に巫女をつとめし児の涼し

前回、御朱印を書いてくれた若い巫女さんに再会することはできなかった。柔らかい訛言葉が心地よい人だった。


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藤白の桜は笑みて南風


-2.5 王子巡を続ける



◆次の王子まで

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藤白神社から国道42と県道で藤白坂の向こう側へ回る。ここに下りてくるはず。


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川と菜の花。

この辺になると雨は本降りになってきたのでレインウェアを着て、サイドバッグにレインカバーを付けて走っていた。景色が綺麗でカメラを出したかったが雨が強くて撮影できないところも多かった。


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みかんの無人販売。「清見」という品種。2個で100円は相場としては高く感じてしまうが、お昼ごはんも食べていなかったのでこれをランチとする。

屋根付きの下で雨を避けながら食べることが出来た。甘くて美味しかった~。



◆橘本王子(阿弥陀寺)

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橘本王子

藤原定家や藤原頼資等の日記に、「橘下王子」と書かれているのが、この王子です。定家や頼資の熊野参詣より約100年前の天仁二年(1109)十一月六日、藤原宗忠は熊野参詣の帰り道に、橘本王子社の前から、塩津付近に向かい、海を渡って、和歌浦・吹上浜を見物したと、日記に書いています。江戸時代には「橘本王子」と書きましたが、『紀伊続風土記』によると、王子は村の北にあって、土地の人は「本」の字を略して、橘の王子と呼び、また、白河法皇が参詣の時に、この王子社に通夜して「橘の本に一夜の旅寝し入佐の山の月をみるかな」という歌を詠んだと伝えています。現在はこの阿弥陀寺の境内に、その跡をとどめるのみですが、室町時代の永享九年(1437)王子社の社殿を造営し、江戸時代の貞享四年(1687)に屋根を葺き替えたという棟札が残されています。『古事記』『日本書紀』垂仁天皇の時代に、田道間守(たじまもり)が常世の国から、橘の木(トキジクノカクノコノミ=非時の香菓)を持ち帰ったという伝説がみえ、それをこの地に植えたという言い伝えに橘下王子(きつもとおうじ)のいわれがあります。橘を温州蜜柑の原種とする説に基づき、この地は紀州蜜柑発祥の地ともされています。




◆所坂王子(橘本神社)

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橘本王子(阿弥陀寺)から少し南に走ると所坂王子(橘本神社)に到着。

この王子社名を、藤原定家は「トコロ坂」、藤原頼資は「○坂 (○は判読不明だった)」と日記に記しています。○は植物の野老(ところ)のことです。この付近に野老が多く自生していたことから、王子の名がつけられたようです。『紀伊続風土記』では、「所」の字を当て、所坂王子社と詠んでいます。この王子社は、明治時代に塔下王子社・橘本王子社を合祀し、橘本王子神社(現、橘本神社)となりました。そして、橘本王子の由来である田道間守は常世の国から橘の木を持ち帰り、この地に日本で最初に植えたと伝えられています。その実が、日本で最初のみかんとなり、菓子となっところから、橘本神社は、みかんとお菓子の神さまとして、全国のみかん・菓子業者から崇められています。



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橘:今から千九百年前、田道間守(たぢまもり)が垂仁天皇の命をうけ、常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)はこの橘樹であり、今のみかんの原種であります。


要はみかん発祥の地であるということか。和歌山の山々はみかん畑で覆われている。


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雨空の下、パッとしないけど桜がとても綺麗だった。


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軒下に隠れて写真を撮る。


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帰り際、なんか凄いものを見つけた。

大正時代の皇太子・・・昭和天皇御手播の楠の木ということか。


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手水鉢には桜の花びらと雨粒が落ちていた。



◆一壺王子

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さて再び雨の中自転車に乗り走ると「一壺王子」に到着。


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藤原定家が後鳥羽上皇の参詣に随行したときの日記に「一壺王子」、藤原頼資が修明門院の参詣に随行した日記に「一坪王子」と見えるのが、この王子社です。また、頼資が後鳥羽上皇と修明門院の両院御幸に随行した、建保五年(1217)の日記によれば、十月四日、この「一壺」に小屋形が作られ、両院は昼食をとっています。この王子社は、江戸時代には、市坪(一坪)王子、山路王子社あるいは沓掛王子社と呼ばれています。ここから、蕪坂峠に向かう急坂となるため、山路・沓掛などと呼ばれたのでしょう。また、江戸時代には、この王子社は市坪・大窪・沓掛三か村の産土神でした。そのため明治時代以降も神社として残り、沓掛村の里神八王子社等を合祀しています。現在は山路王子神社となっていますが、かつては安養寺という別当寺があり、鐘楼がその名残をとどめています。秋祭りに奉納される相撲は、「泣き相撲」ともいわれ、小児の健康を願うもので、県の文化財に指定されています。



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枝垂れ桜が雨に濡れている。背景に見えるのが土俵。


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神社にはこんな綱がぶら下がっている。明日香の男綱のようだ。


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雨が酷かったので写真を撮りながら休憩。枝垂れ桜が美しい。

さて、ここから先、峠越えになる。



◆拝ノ峠へ

急激に斜度を上げて行く。集落の入り口でおばあちゃんとおばちゃんが立ち話している。
「雨で大変だね」って声をかけてもらう。

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雨は本降り、斜度は凄い。ちょっと自転車で走るレベルの斜度ではない。道幅も狭いのでジグザグに登ることも出来ない。危ないので手押しした。

やっと安定したところまで来たので休憩を兼ねて写真を撮る。みかん畑の間に無理やり作った道という感じだ。サイドバッグがなくて天気が良ければもう少し頑張れたはずだが、本当にすごい道だった。


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なんとなく斜度がわかってもらえるか。


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でも、ときどき眺望がきき、そういうところでは立ち止まって景色を眺める。人もクルマもほとんど来ないので静かなライドを楽しむことが出来た。


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17:15 峠の万葉歌碑に到着。

・安太へゆく小為手(さいで)の山の真木(まき)の葉も 久しく見ねばこけむしにけり
(巻7-1214)

歌意:有田地方へゆくさいでの山の杉の大木は久しく見ない間に苔むしていた


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近くのヤマザクラがきれいに咲いていた。


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見下ろす景色はみかん畑と桜。



◆蕪坂塔下王子

峠まで来たが、この先はルートラボでも線が引けないほどの田舎道。案内に従うしか無いが、すこし道に迷った。林の中だと方向感覚を失う。

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17:30 蕪坂塔下王子に着。

熊野御幸の盛んな頃、蕪坂には、峠と南麓の二箇所に王子社がありました。峠の王子社は、藤原定家の日記では「カフラサカノタウ下王子」、藤原頼資の日記では「蕪坂王子」と記されています。南麓の王子社は「山口王子」あるいは「宮原王子」です。ところが、『紀伊続風土記』では、峠に蕪坂王子・塔下王子の二社があったと記しています。これは藤原定家の日記を、読み間違えたと思われます。『紀伊国名所図会』に「蕪坂王子社蕪坂の上にあり」と載せられているのが、当王子社のことです。また、『紀伊続風土記』では、別名として、「鏑鎚王子」を当王子社に比定していますが、『紀伊国名所図会』では、麓の山口王子社の項に記しています。この王子社は明治時代に、山口王子社と共に、宮原神社に合祀されましたが、平成元年、地元の愛郷会によって社が再建されました。



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万葉歌碑あり。

・木の國の昔子雄の鳴り矢もち 鹿獲りなべし坂の上にぞある
(巻9-1678)

”なべし”は”靡けし”と読み下す本もある。歌意としては、”猟師が鏑矢をもって鹿を取り押さえた場所である、ここは”。この鏑矢(かぶらや)が蕪坂(かぶらさか)の由来とされているという説明板が建てられていた。


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椿が散り、雨がしっとりと降っている。誰もいない。静かでいいところだった。


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桜と名も知らぬ紫の花。


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下の集落が見える。うーーん、いい景色だぁ。



◆爪書き地蔵

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下り道はブレーキ握りっぱなし・・・。みかん畑の中をグネグネと下っていく。

17:45 爪書き地蔵。

これを見たかった。


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建物の中に石があり、そこには弘法大師が爪で書かれたという阿弥陀と地蔵が線刻されている。(本当は室町の作だろうということだが)

建物の中はまっくらでフォーカスをどこに当てれば良いのかも分からない。盲SHOTでかろうじて阿弥陀様は写っていた。心を澄ますとじんわり見えてくるはず。(ISO25600で撮影)



◆山口王子

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引き続きみかん畑の間を縫うように下りていく。一部、徒歩道(階段)と舗装道に分かれたりする。徒歩道が熊野古道になるわけだが、自転車なので舗装道を下る。


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18:04 山口王子跡に着。

公園になっていて桜が満開だった。


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山口王子跡

建仁元年(1201)十月九日、藤原定家は、「カフラサカノタウ下(蕪坂塔下)王子」の次に、「カフラサカ山口王子」に参拝しています。また、藤原頼資は承元四年(1210)四月二十五日に、蕪坂の次に宮原の王子に参拝しています。共に、蕪坂を下って最初の王子者に参拝していることから、同じ王子社と考えられます。蕪坂の麓にあるため、定家は「山口」といい、頼資は、この地が宮原庄であったことから、「宮原」と呼んだのでしょう。江戸時代には山口王子社、あるいは鏑鎚王子と呼ばれてたようです。明治時代には王子神社となって存続していましたが、神社合祀で、蕪坂塔下王子と共に、宮原神社に合祀されました。現在の社は、平成三年に地元の愛郷会の人たちによって、再建されたものです。



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敷地内にはもう一つ碑があった。スタンプ押印所があり、そこにノートが置かれていた。数日前に子どもたちがここを訪れて私と同じように桜を楽しんだようだ。こういうのっていいな。



◆伏原の墓

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山口王子からは民家ゾーンとなり、やっと人の匂いのするところまで下りてきた。走っていたら線香の香りがしていたので「なんだ?」と思っていたら、石仏が置かれているところがあった。説明板によると、ここを「伏原の墓」というらしい。有田市指定文化財。

熊野参詣の途中、不幸にして亡くなった人びとを弔うため建立されたもので、いつの頃からか道中のあちこちに置かれていた墓石や板碑等をこの地に集め祀り供養したものである。・・・昔の旅人は、長旅をする場合、水杯をかわして家を出た。そして旅費の他に万一道中で亡くなったときのための費用を着物の襟に縫い込んでいたという。これが、旅人のたしなみ、心がけであった。・・・街道筋の人々は昔からの伝統として、今もなお墓前に香華を手向け供養を続けている。


辺りに漂っていた線香の香りは、この墓に手向けられたものだろうか。素晴らしい場所を知ることが出来た。



◆紀伊宮原

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18:24 紀伊宮原駅近くまで来た。ふれあい公園なるものがあり、熊野古道の説明があった。

それにしても腹減った~。昼ごはんはみかん2個しか食べていない。この公園の斜向いにたこ焼き屋さんがあった。ううう・・・ここは我慢した。


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道に迷って走っていたらみかんの無人販売があった。

デコポン5個で100円だった。破格だ。迷わず購入。こちらの無人販売では、そのほか檸檬や他の品種のみかんも置いてあったが甘みが強いであろうデコポンを選んだ。

紀伊宮原駅近くにはミカンの集荷場があり、一際いい匂いがしていた。


- 2.6 和歌山に戻り夕食



◆JR紀伊宮原駅にて

紀伊宮原では電車待ちの時間が40分くらいあった。その間、地元の人々を観察。

1.定期を父母と買いに来ている学生さん
定期券の申込用紙を家族であーでもないこーでもないと楽しそうに書いている。それを駅員さんに渡して定期券を買っていた。明日から電車で高校に通うようだ。この子にとっての新しい日々が始まるのだ。それを家族で応援している。こんな日があったことを忘れずに生きて行ってほしいものだ。

2.電車の乗り方を母親に教えてもらっている中学生
次の日から電車で学校に通うらしく、改札の通り方、ホームへの渡り方などを母親に教えてもらっている中学生と思われる男の子がいた。純朴そうだ。母親に「定期券は駅員さんに見せるんだよ、明日からお世話になるんだから挨拶しなさい。」などと促されて恥ずかしそうにペコリと頭を下げる。

なんか、いいもの見れたなぁ。黄金風景だ。



◆夕食は和歌山ラーメン

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JR紀伊宮原から輪行でJR和歌山まで移動。和歌山では井出食堂で一番大きいチャーシュー麺を食べた。うまかった~。豚骨の匂いが店の中に充満しているので、私の汗臭さも周りの人の迷惑にならない(笑

食後はネットカフェにて仮眠。シャワーありの所だったのでシャワーを浴びてスッキリした。




走行距離:36.52Km

あれ~?これしか走っていないのか?でも、走行距離以上の疲労感だった。峠越え部分はクライマーな人が喜びそう。


(つづく)