少し旅に出ていました。

3/10の記録。最初に言っておきます。また長いです。

1.概要
2.行動記録(抄)
2.1 白崎とその先
2.2 日の崎とその付近
2.3 御坊から王子社巡り
2.4 白浜

# 1.概要


今日の旅は、海岸沿いに南下し白崎、日の崎など万葉集にうたわれた風光明媚な土地を巡る。御坊付近から再び熊野古道 紀伊路に復帰し王子社巡りをしながら紀伊田辺を経由して白浜へ。白浜の温泉に入るまで。

とりわけ白浜の温泉(崎の湯)は万葉期には紀温泉、紀温湯などと記され、当時の田辺付近を牟婁と呼び、田辺湾を牟婁の江とよばれていたことから、これらの温泉は「牟婁の湯」ともいうらしい。(犬養孝著 「万葉の旅」(中)より)

今回の万葉の旅の一つの柱は有間皇子関連の史跡を巡ること。牟呂の湯はかなりキーとなる場所。外すことができない。


# 2.行動記録(抄)


<ルート>


- 2.1 白崎とその先



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宿泊した宿は「寺井旅館」さんです。朝ごはんをいただいて、女将に宿前で写真を撮ってもらいました。ちなみに女将さんは恥ずかしがり屋さんなのか写真を絶対に撮らせてくれないのは前回宿泊した時に学習済み。(同宿した人たちが「記念に・・・」と女将との写真を撮ろうとしていましたが、絶対に応じませんでした(笑))

宿からみて山側に行ったところに「戸津井鍾乳洞」というものがあり、土日だけ観光することができます。いつかは行ってみたい。

9:15頃宿を発つ。

女将さんに、ポンカン、デコポンなどビニール袋いっぱいいただいた。ボトルに冷たい緑茶もいただいた。本当にお世話になりました! (女将さんもミカンが大好きで、和歌山に住めて良いことのひとつがミカンがたくさん食べられることだとおっしゃっていた)


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宿前からは大きな橋と港が見える。いい景色です。


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少し走れば海におりてこれる。


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さらに走ると寺井旅館さんからも見えた白橋が見えた。


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宿から5Kmくらいで白崎に到着。前回、寺井旅館さんに宿泊した時は、同宿した方のレンタカーに乗せてもらって一緒に観光させてもらった。

ここの白さは目に眩しい。


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道の駅がある。宿泊できる建物やダイビングスクールのようなものがあり広い駐車場もあるが、平日の為ひとはおらず、白崎を独占観光できた。

「回天」と呼ばれた人間魚雷の発進基地だったという情報もどこかで読んだが、行ってみるとそういうものは目につかない。


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階段をあがりビュースポットに着く。
風が強いが、海は碧く美しい。ここは日本ぽくない。本当に美しい。


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東方面。古いシネレンズを開放付近にすると滲んで眩しい光が印象通り写った。


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北方面。いままで走ってきた崎々が見える。


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こういう植物も海っぽい。


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白崎をあとにしてすぐのところに「立巌岩」がある。


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振り返れば白崎はすぐそこ。


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「立巌岩」は穴が空いていていた。綺麗な海が見える。


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万葉公園に歌碑があった。
寺井旅館の女将さんが白崎は万葉集にも歌われていると言っていた。

・白崎は 幸くありまて 大船に 真舵(まかじ)しじむき また 帰り見む
(巻9-1668)

説明板に従って記載したが、「真舵しじき」が正しいと思われる。(石面も「ぬ」になっていますね)
歌意は、「白崎よ無事で待っていておくれ、大船に舵を揃えてまた帰って来るから」とのこと。

”幸く”、”また帰り見む”は有間皇子の歌に通じるものがあり、不確定な未来に対する安寧への希求が感じ取れる。私も、幸いにも再び白崎を見ることができた。また来よう。


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ウミネコ繁殖地があった。
あいつらはどうしてあんなに騒がしく鳴くのか。


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大引浜

「大引から北の衣奈(えな)に向う海沿いの丘からの岬の展望は絶景というほかない。時うつり人去っても、海の青と岬の白とはくっきりと、幸く在りつづけることを祈らないではいられない。」(犬養孝著 万葉の旅(中))


犬養先生はこの辺も歩かれたのだろうか?


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落石防止のネットからきれいな黄花が咲いていた。日当たりがいい所だったから、元気に咲き誇っていた。


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白崎郵便局

今回、リヤキャリアをつけたため明らかにリヤヘビーな状態。中でもモバイルバッテリーや、書籍(5冊)が使用頻度の割に重い。また、各所で買ったお土産や寺井旅館さんで朝もらったミカン類が場所を取る。

ということで、ゆうぱっくで自宅に送りつけた。1キロ、2キロの荷物が無くなるだけでもペダリングが軽くなり、フレームのたわみ方も変わってバイクの操作が楽になる。


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しばらく走ると、「桜島跡」の公園があった。寺井旅館さんでもらったミカンを食べて一休み。ここは昔、桜島という島があったらしく、宗教行事等も行われていたが現代埋め立てられてしまった。


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近くにはセメント屋さんが建っている。


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地名は分からないけど、走る先々では春の花がたくさん見られた。田んぼに咲いているレンゲ草。この花は田を耕すときには一緒に漉き込まれる運命にある。


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水仙も一列に並んで圧巻だった。


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すこし山側に入るとツツジ的な花も見られた。


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たぶん、産湯付近の海と思われる。
この旅ではお馴染みの「ツーリングマップル」をコピーして持参していましたが、産湯の海は特に綺麗だとの情報が書かれていた。

間違いなく水質良く、ひと際きれいな海だった。


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ふと淋しい集落に来た時に見たこともないような形状の巨木群が目に入った。
ガジュマルみたいな南方の樹のようだけれども、ちょっと違う。


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根っこが枝のように下りてきて次々重なっている感じ。コンクリートの上にもがっしりと重なっている。


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「アコウ」という樹らしい。天然記念物ですって。紀伊半島西部が日本最北の分布地とのこと。道理で初見のはずだ。本当に面白い樹。思わぬところでいいものが見れた。


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しばらく街路樹のようにアコウの樹が並んでいる。いずれも巨木で壮観。
絵にかきたくなるような風景だった。


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たぶん産湯海水浴場かな。
水もきれいで波も美しい。


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すこし風の強い日だった。

※水の色がややインチキくさいのは撮影モードを「ビビッド」にしたからだと思われる。FUJIのベルビアみたいな結果を期待したが、さすがにそこまでの色味は出せないカメラのようだ。狙いすぎるといい結果にならない。

20170308-和歌山~明日香旅6

温暖な気候らしく海辺には花が咲いていた。

大体、ここまででお昼になった。


- 2.2 日の崎とその付近



ここからまだまだ万葉の旅が続く。

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今日のスペシャルメニューは日の崎。重い荷物を積んだままクライムすることになる。ただでさえトレーニング無しのぶっつけ本番の旅。

眼前に広がる日の崎を見上げ、頂上に付近に建物が見えるのを確認する。休み休み行くしかない。


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クライム前に歌碑を見つけた。

・風早の 三穂の浦みを 漕ぐ舟の 船人さわく 浪立つらしも
(巻7-1228)

説明板によると・・・

 万葉集には三穂の地(この辺のこと)にかかわりある歌が6首あり、この歌はその一つ。古来三穂の沖合は風浪がはなはだしく、そのため三穂の地名には「風早」という枕詞がついた。歌の作者は明らかではないが、詠まれた風景は1300年を経た今も変わらない。


私が訪れたときもかなり強い風が吹いていた。「風早」とは誠に的を得た枕詞だと思いながら走った。


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どんな道でも走れば目的地に着く。日の崎の高所から眺める海は最高に綺麗だった!


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日の崎灯台

新しい灯台を建設中だった。


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さて、日の崎にはクヌッセン機関士の顕彰碑があった。今回、万葉の旅をメインに考えていたためノーマークだったが、設置されていた説明文を読んで深く感銘を受けた。

要約すると、昭和32年2月10日の夜9時過ぎのこと、日本の機帆船「高砂丸」が日の崎沖で火災を起こしているのをデンマークの船エレン・マークス号が発見し救助活動をしてくれた。救助活動の中で日本人一名を救命艇に乗せ救助。本船に縄梯子で乗船させる際、疲れ切っていた日本人船員は海中に転落。このとき、同船の機関長として初航海に従事していたヨハネス・クヌッセン氏(39歳)が日本人船員を救うため暗夜の激浪の中に飛び込んだが、残念ながら両名とも次の日に水死体と発見された。

39歳ならお国にお子さんがいたかもしれない・・・。考えれば考えるほどこの崇高な行為に胸を打たれる。泳げない私は船乗りになることは絶対にないだろうが、私には暗い海の中に飛び込む勇気はない。どのように自分の命の使うかによって人の価値は決まる。


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顕彰碑が青空の下、今でも建っている。


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・君が名は永遠に朽ちざり国境を越えて命を救はむとせし

かな。くずした字を読む能力が無いので間違っているかもしれないが、言わんとするこころは分かる。


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銅像もあった。末永くこの方の功を顕彰し続けていただきたい。

そんなことを考えながら、椅子があったのでここでお昼ご飯。(13:40頃)
ミカンとバナナを食べた。


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「風早」の崎には風力発電機があった。低音のグオングオンという音が耳に残っている。


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日の崎は昔は人がたくさん来たのかな?遊具施設があった。
現在は廃墟のようだ。そっち系の趣味がある方には垂涎ものの錆び方です。


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景色は相変わらず良い。


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さて下りる。途中、遠方を眺めると原発みたいな施設が見えたが、調べてみると火力発電所だった。南海トラフ地震もいつ来るか分からないのに、原発なんて怖くて怖くて・・・。


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さて、下りてきた。ここからは犬養孝氏の「万葉の旅(中)」に記されている「三穂の岩屋」という所を探した。

が、まったく分からない。そこそこご年配の地元の釣り人に聞いてみても分からない。道を戻って〇〇の集落でお年寄りに聞けばわかるかもしれないとアドバイスをもらったので、道を戻り2~3人の方に聞いて回った。

龍王神社近くの港にいたおじいちゃんに聞いてみたら、「三穂の岩屋か・・・この神社の向こう側だ。詳しい場所は、そちら側にいって聞いてみてくれ」とのこと。

で、いろいろ駆け回ってはみたが人がいない・・・。そんなときロードに乗った地元の若い方々の集団とすれ違った。声をかけたが届かなかったようで、さーっと行かれてしまった。

そして偶然にも道を歩くおばちゃんを見つけ話を聞いたら・・・

”三穂の岩屋は私たちが若い頃行ったことあるけど、今では藪だらけで行けるかどうかわからない。また私有地だから許可を取らないで入ると怒られるよ・・・”って。怒られるくらいならやめようと決断した。

そんな話をしていたら、先ほどの若いロードの集団が戻ってきてくれて、「お困りですか?」って。これこれこういうわけで・・・と、三穂の岩屋を探している旨を伝えるとご存じだったようだが、やはり怒られるって(笑

それから雑談して別れました。いろいろ気遣ってもらってありがたかった。


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かろうじて観光案内板があった。

龍王神社の近くに「久米若子の石室」とある。ここのことかもしれない。

ひとつ残念なのは龍王神社をパスしてしまったこと。鳥居のところまでは行ったのだけど、時間がないと思ってパスしてしまった。ここもアコウの大きな樹があって原始的な雰囲気が残る場所だった。次回は必ず立ち寄ろう。


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さて、三穂の岩屋は諦めて走ること数分。煙樹ケ浜が見えてきた。
かなり広い海岸でとても整備されているように見える。松林も美しい。


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煙樹ケ浜に着いた。人が見えるけど、その大きさとの比からこの海岸の広さが分かると思う。美しい浜辺だった。


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松の前で記念撮影。

 煙樹ケ浜は、西川河口(浜ノ瀬)から和田・本の脇に至る幅500メートル、長さ5キロメートルにおよぶ大松原をなしている。
 この大松原は、いつ頃形成されたかは不明であるが、江戸時代には紀州藩が御留山として、保護したと古文書にはある。しかし、藩の都合で、松木伐採が行われることもあった。周辺の農民は、その都度反対運動をおこし、松原の保護育成に努力した。その結果、この美林を後世に残すことができた。
 この浜は、地元では「日高浜」と呼ばれてきたが、大正14年に近藤浩一路画伯が、この日高浜の松原を描き「烟樹ケ浜」と題したことからこの名が生まれた。



- 2.3 御坊から王子社巡り



煙樹ケ浜を過ぎて再び王子社巡りの旅に復帰します。


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岩内王子(焼芝王子)旧跡


焼芝王子(若内王子)はもともと日高川を渡った近く(字 王地周辺)に鎮座していたと考えられています。岩内の地は、日高川をはさんで西の小松原宿とともに重要な位置を締めていました。
王子は、元和元年(1615)の大水害で滅没し、字 田端(現在地より南方)に移動、明治時代に熊野神社に合祀されました。


久しぶりに王子社のルートに戻り、少し安堵しました。こちらはこちらで民家の間を走るルートなのでダイナミックさはありませんが、しっとりとした風情を感じさせてくれます。


20170308-和歌山~明日香旅14

次は・・・

塩屋王子。美人王子とも呼ばれています。


塩屋王子神社の祭神は天照大神ほか十一柱であるが主神の天照大神の神像が美しいところから別名を美人王子と崇められてきました。
 古い記録の中に 来ル菊月四日美人王子宮御祭礼之節・・・と記され、また和歌山県聖蹟には、美景の地に鎮座することから美人王子と称えたのであろうと書かれている。
 今日では美しき子が授かると言われ若い夫婦や女性の参拝が盛んである。


神社の前で、下校中の元気な男の子と若いお母さんとすれ違った。ちゃんと挨拶してくれた。これが彼たちの毎日なのだ。美しい時間だった。


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国道42に乗り走っていると、「十三塚」というものがあった。

いつ頃のことか定かではないが里伝によれば昔出羽国羽黒山の山伏一行が熊野参詣の折柄阿波国の海賊の為に殺害せられたのを里人憐みのあまり懇に之を葬り供養の誠を致して今日に及んでいた。


東北と和歌山がつながりました。


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野島付近と思われる。

犬養孝氏の「万葉の旅(中)」によると、野島の項で、中皇命(なかつすめらみこと)の歌を掲載している。

・我が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠そ拾はぬ
(巻1-12)

末尾の「ぬ」は未然形に接続しているので打消し「ず」の連体形と思います。「阿胡根の浦の 珠はまだ拾っていませんよ」ってことですね。たぶん。


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と思ったら、「はし長水産」さんの駐車場に先の歌の歌碑があった。

ツーリングマップルを見るとここのお店でご飯を食べるべきと思い、お昼ご飯に・・・と予定していたが到着したのは16:26。無謀な計画していたなぁ・・・。お客さんがたくさんいたので、きっと美味しいお店なのでしょう。


20170308-和歌山~明日香旅7

次の王子に行く前に「仏井戸」というところに訪れることにした。井戸の中に石仏がある全国的にも珍しいと言われる史跡。

案内板はあるのだけれど、迷いに迷った。田んぼのあぜ道を自転車で手押ししたり、同じところをグルグルと回った。GPSでだいたいの位置は入れていたけど、やっぱり現地に行くと細かい部分で分からなくなる。

そして、やっと「←仏井戸」の案内を見つけた。


20170308-和歌山~明日香旅8

ワォ! 民家と民家の細い隙間に入っていく道だった。そこを抜けるとさらに案内の矢印があって・・・。


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仏井戸があった。

上野王子の旧地にある底の井壁に室町時代末期の阿弥陀如来(中央)、勢至菩薩(左脇)、観世音菩薩(右脇)の一石三尊が彫られている。「紀伊続風土記」に「王子の本地仏」とある。全国的に類例の少ない井戸仏である。


中を覗いてみましたが、それらの像は見えませんでした。


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このパイプは井戸の中につながっている。御賽銭でもいれるのか?


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井戸横には石仏群。地元の方が花を供えている。


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さて、仏井戸をあとにして、次の王子は・・・

上野王子跡

熊野九十九王子の一つで建仁元年(1201年)の後鳥羽上皇「御幸記」に「次にうへ野王子野径也」とみえる。旧地は仏井戸であるが火難にあい江戸時代に現在地に移された。


ここでは、銀行員のような方に挨拶を受けた。外に出て行かれる行員さんは腰が低いですね。


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近くに「清姫の腰掛石」があった。

清姫については後日、墓所を訪れたのでそこで詳しく書きます。


20170308-和歌山~明日香旅10

次の王子は・・・

叶王子跡

建仁元年(1201)、後鳥羽上皇に随行して夢魔の参詣をした藤原定家は、十月十一日に、塩屋・「うへ野」(御坊市)、「ツイ」・「イカルカ」(印南町)の各王子に参拝し、切部(きりめ)王子社で宿泊しています。それから十一年後、修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資は、承元四年(1210)四月二十六日に、塩屋・上野(御坊市)・楠井・鵤(いかるが)・切目(印南町)の各王子に参拝し、切目で宿泊しています。上野王子と鵤王子の間に、津井あるいは楠井と呼ばれる王子があったのですが、早くに退転してしまったようです。江戸時代には、この付近に叶王子社があったことは、『熊野道中記』などで知られています。『紀伊続風土記』では、叶王子社は津井王子社が移転したものと説明しており、これが有力な説です。この王子社は明治時代に叶王子神社となりましたが、山口の八幡神社に合祀されました。合祀後も地元では、願いが叶うの意から、「おかのさん」と呼ばれています。



20170308-和歌山~明日香旅9

次の王子は・・・

斑鳩王子

天仁二年(1109) 十月二十日、熊野参詣途中の藤原宗忠は、「印南」の里を過ぎて、「鵤(いかるが)王子社」に奉幣したと、日記に書いています。その後、鎌倉時代に熊野に参詣した藤原定家や藤原頼資も、それぞれの日記に、この王子に参拝したと記しています。江戸時代には富(とみ)王子といわれ、『紀伊続風土記』では、印南荘光川村の項に載せられています。「いかるが」が「光川」に当て字され、村名になったようです。富王子社の名称は、近くを流れる富川に由来するらしく、昭和十七年に刊行された『和歌山県聖蹟』では、鵤王子社が江戸時代に、この地に移転されたと述べて、旧社地を字森平にあった「大将軍神社」の跡地に比定しています。富王子社は明治時代に富王子神社になりましたが、大将軍神社とともに、印南の八幡神社に合祀されました。現在の斑鳩王子社は、昭和二十五年に八幡神社から分祀して建立されたものです。



20170308-和歌山~明日香旅11

次の王子社は・・・

切目王子

他の王子とは格式を異にする五体王子の一つです。

 当社は、熊野九十九王子の中でも、藤代王子(藤白神社)、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子とともに最も著名な王子社「五体王子」である。
 平安・鎌倉時代(11~13世紀)にかけての300年間は、熊野詣が盛んで、当社のその中継遥拝所として、天皇、上皇、法皇、女院、武人、文人墨客は、必ず参詣し、御所御殿は皇族の宿泊所であった。
 後鳥羽上皇が当社の御所御殿にお泊りになり、供奉の方々と御歌会を催され、11人の方々が懐紙にそれぞれの感懐の和歌をしたためられた。
 これが有名な国宝「切目懐紙」である。後、故あって、京都西本願寺に秘蔵されることになり、当社にはその写しが巻物となって残されている。
 平治物語には、平清盛が熊野参詣の際、切目王子で源義朝が挙兵したことを聞き、ただちに京へ引き返したという逸話が紹介されています。
 切目王子には、宇多天皇をはじめ花山院、白川上皇、後鳥羽上皇など、歴代皇族が参詣し、「蟻の熊野詣」といわれていました。


敷地内には天然記念物「ホルトの木」がありました。初めて聞く名の木です。

この木は暖地性常緑喬木で、本州では紀州以外に稀に見る珍木とされている。幹周約四メートル 根廻り六メートル 高さ約一六メートル 樹令約三百年と推定され、深専寺(有田郡湯浅町)のホルトノキに次ぐ第二位であり、学術上貴重な天然記念物である。


17:45頃でした。暗い境内でかなり手ぶれしてしまった。もう少しゆっくりしたかった場所ですが、時間もおしてきたので旅の安全をお願いして帰ってきました。


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万葉歌碑があった。

・殺目山(きりめやま) 行きかふ道の 朝霞 ほのかにだにや 妹に逢はざらむ
(巻12-3037)

歌意:殺目山を行き来する道に立つ朝霞、その霞のようにせめてほのかにだけでも、あの娘に逢えないものだろうか。


20170308-和歌山~明日香旅12

次の王子は・・・

中山王子

正直、ここの王子に行くのが最も大変だった。圧倒的に。斜度がものすごくて自転車で上ることはできなかったので、自転車を置いて徒歩で参拝した。ちょっとひらけた場所があり、下の景色がよく見えた。もう日が落ちて寒かったなぁ。(18:10)

 後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家は、建仁元年(1201)十月十一日に切部(きりめ)王子付近の漁師の家で、海水で身体を清める塩垢離(しおこり)を行い、翌日「切部中山王子」に参拝しています。定家のような中流の貴族は、民家に泊まることが多かったのです。それに、岩内王子(御坊市)付近の小宅で宿泊した時に発熱していましたので、病気の身体で、この王子社に参拝しています。承元四年(1210)熊野に参詣した修明門院は、四月二十六日に切目で宿泊し、翌日、切目中山を徒歩で、次いで輿に乗って、この王子社に参拝しています。江戸時代には中山王子社と称され、境内には、長床という僧の修行場ないし宿泊施設もありました。ただし、御幸時代の中山王子社は別の場所にあり、後世、現在地に移されたという説もあります。明治時代に王子神社となって、付近の小社を合祀して存続し、現在に至っています。






残念ながら今日はここまで。結局、今日も予定していたところを全部回ることはできなかった。今日は「三穂の岩屋」捜索で時間をかなり使ってしまった。幸いにも翌日の3/11の予定はバッファとして予定を少なくしているため、そこに詰め込んでいこうと考えた。王子巡りは逆順になってしまうけど・・・。

<今日の予定で行けなかった所>
岩代海岸・結びの松、岩代王子、峠の石仏、千里王子・千里ヶ浜
三鍋王子、鹿島、芳養王子、植芝盛平生誕地、出立王子


- 2.4 白浜



暗くなってもう写真も撮れなくなったころ、みなべ紀伊田辺を走った。この辺は何度も来ているので土地勘があるが、以前はクルマで来たので頭の中の地図の縮尺が自転車で走ったものと異なった。

みなべに入るときと出るときに小さな峠を越える。国道42は車の交通量も多く少し怖い。すっかり日も落ちた紀伊田辺では海沿いの道を走る。かなり冷えるが冷え方が独特だった。体に浸みてくる。東北の寒さには耐えてきたつもりだがなんとなく寒さの質が違ったように感じる。

そして、何度来ても訳の分からない”田鶴”の交差点をなんとか自転車で渡り、白浜方面へ走る。思ったよりもアップダウンがあった。そして海沿いの道は相変わらず寒くて脚が動かなくなってくる・・・。

幸にも白浜は観光地なのでコンビニなどがたくさんあり街灯も多い。心細くはない。走ればいつかは宿に着く。20時頃予約していた宿に着いた。若いお兄さんが対応してくれた。素泊まりだが、わりとシステマチックに説明や案内が進む。外国人さんも来るような所だから、こんな感じになるのか。

温泉に入るためのチケットを宿で購入。現地で現金払いするよりも安く入浴することができる。そして、夕食のとれる場所を聞いてみた。温泉の終了時間を気にして手っ取り早く食べられるラーメン屋を教えてもらった。

いったん部屋に荷物を置いて、お風呂セットと貴重品を持って、食事と温泉に出かけた。
(部屋にもシャワーはあるが、やっぱり温泉に入りたい)


P1010891

2カ所おススメのラーメン屋さんを教えてもらって、その一つ「八両」さんへ行った。知らなかったがこの辺のラーメンは豚骨ベースだった。大盛りを頼んだ上に替え玉までして、餃子も食べた。自転車で走ると平生では考えられないほどの食欲がでる。そのくらい食べないとバテてしまう。美味かったです。


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その後、ラーメン屋さんからは少し離れた「牟婁の湯」さんへ急ぎ向かう。
21:30がラストインで22:00で営業終了。旅人に優しい温泉だ。

宿の方によれば、白浜にはいくつか温泉があるが、源泉の関係で「牟婁の湯」さんは熱めの湯らしい。温泉好きな人は牟婁の湯さんの熱い湯を好むそうだ。

”礦湯(まぶゆ)””みゆき湯”の二つの源泉を楽しむことができる。

以下に詳しい。

・南紀白浜観光ガイド-牟婁の湯
http://www.nanki-shirahama.com/search/details.php?log=1332742645

私が最後の客だったので、ふたつの湯をゆっくりと楽しむことができた。
帰りがけに記念のタオルを買った(200円)。




冒頭に書いた通り、この温泉に入るのが旅全体を通して割と大きな意味を持つ。

657年10月、有間皇子18歳のときに白浜温泉に療養の名目で出かけます。

「白浜のお湯は大変景色のいいところで、私の頭の具合の悪いのも治りました」(犬養孝著 「万葉の人々」 有間皇子の項)と都に戻った有間皇子は中大兄皇子に報告。当時の有力者、中大兄皇子(後の天智天皇)の強引な政治に反感を覚える豪族などに担がれそうになるのを、有間皇子は気がふれたふりをして身をひそめていたのでした。それが治ったという訳のようです。

この後、斉明天皇と中大兄皇子(斉明天皇は中大兄皇子の母)が牟婁の湯に出かけます。その時、有間皇子は都にいたのですが蘇我赤兄にそそのかされて謀反を起こしてしまう。しかし即座に捕らえられてしまう。きっと嵌められたのでしょう。

白浜にいる中大兄皇子のもとまでしょっ引かれ裁判を受けるが、中大兄皇子には「帰れ」と言われ帰る。そして「藤白の坂」にて処刑される。(「藤白の坂」は昨日、時間が無くてパスしたところです。)

そんな史実を踏まえた上で、万葉集に残された有間皇子の歌を読むとまだ19歳の皇子の悲しい運命が予見され切なくなる。

 ・磐代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた還り見む
 ・家にあれば笥(け)に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る


磐代(今の岩代)の浜松の枝を引き結んだのは、中大兄皇子のもとへ連行される行きなのか帰りなのか変わりませんが、ほぼほぼ死を覚悟していたであろう有間皇子が松の枝を引き結んだという生きた証、もしくは無事の願いをのこされたことは心中察するに余りある。

ちなみに松の枝を引き結ぶという行為がどういうものなのかよくわかっていないらしいです。単におまじないや、山に登ってなんとなく石を積む(ケルン)程度の意味だとしても、その哀切の響きに変わりはない。

あーー、私の頭のおかしいのも治った気がします。


20170308-和歌山~明日香旅13

さて、温泉で体があったまったので夜の白浜で写真撮影。簡易的な三脚も持ってきているのでそれを使用している。波の優しい音が心地よい。空は丸い月が出ていた。

若い男女が嬌声をあげて騒いでいた。




コンビニで翌日の朝ごはんや補給食を買って宿に戻り気を失うように寝た。今日もいっぱい走った!


走行距離:102.96Km

(つづく)